奈良公園の創設
奈良公園と若草山
- 奈良公園への関心と愛情が一層深まるよう念願して「奈良公園の創設」について、「奈良公園史 本編第一章 奈良公園の誕生」からごく一部を抜粋し掲載します。
(「奈良公園史」昭和57年3月31日発行 編集 奈良公園史編集委員会 発行 奈良県)
- 同書は、奈良公園開設100年を経た機会に(1980年(昭和55年)刊行されました。同書の刊行には、歴史、自然科学などの専門学者が多く携わり、各方面からの協力を得て奈良公園のあらゆる分野にわたり資料を収集し、編集したもので、後世に伝える資料として貴重な文献です。
奈良公園は太政官布達に基づいて明治13年2月14日開設されました。
古代からの優れた自然景観とわが国が誇る文化財が渾然一体となった公園は比類がなく、まさに歴史公園と称すべきものです。また、奈良市の市街地に近く660ヘクタールに及ぶ広大な面積を持つ公園は、わが国唯一のものです。
伊藤内務卿の開設許可書
わが奈良公園は明治13年(1880年)2月14日、太政官(当時の政府)の内務卿伊藤博文の開設許可によって誕生した。
昭和55年(1980年)、ここに目出たく百歳の佳辰をむかえたのである。
公園の開設は、まず公園地の制定にはじまる。土地処分(地目区分)は所管の府県に委ねられていた。[中略]
奈良公園開設の許可書は、堺県令税所(さいしょ)篤から内務省に公園地確定が上申され、その地目変更が伊藤内務卿から認可されたものである。当時、本県(大和国)は堺県の管下だったため(明治9年、奈良県は堺県に合併)、堺県から上申、その伺書の奥に伊藤内務卿の許可の朱書が加えられ、堺県に下付されたわけである。この公園地制定の認可が奈良公園誕生である。[中略]
公園は万民偕楽の地
太政官では、その近代化政策の一環として公園の制定を掲げた。明治6年1月15日、府県に対して次の布達(正院達第拾六号太政官)を発した。その前年の明治5年には「学制」(学校制度)を発布している。公園は学校教育と並んで社会教育の面でも重視されるべき施設である。[中略]
この「太政官達第十六号」は公園の発足を目ざし、公園地の調査画定を府県に命じたものである。
ここに公園という文字が初めて公文書に採用された。外語のパークの和訳語であるが、これに「万民偕楽の地」という説明を加えている。偕楽は儒教古典の『孟子』に見え、君民ともに楽しむという王侯の徳を称するものであり、わが近世、水戸徳川家の斉昭がその園地に偕楽園と名づけたのが有名である。日本三名園の一つと称される。しかし、偕楽という名まえを掲げたとはいえ、それが有名大名邸の園地なのだから、特定の階層の人々の偕楽であったことも事実である。そこで、この「太政官達第十六号」は万民偕楽と、とくに万民の二文字を加え、万民のために公園を設けるものだという趣旨を宣明している。公園の意義や政府の要人らの意気ごみがわかる。
こののち、明治13年2月創設の奈良公園にも、その開設許可書に「偕楽公園」の語が見えるから、これも「太政官達第十六号」にもとづき、これに応じて開設されたものだとわかる。[後略]
奈良公園史年表(PDF形式 1.71MB)
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旧公会堂の沿革
旧公会堂
- 明治22年 第68国立銀行(本店 郡山町)第34国立銀行(本店 大阪市)の両奈良支店が集会所として「奈良倶楽部」を旧四恩院跡に建設した。[奈良公園史より]
- 明治33年2月15日 県は銀行集会所の奈良倶楽部を買収登記完了した。土地建物及び備品を合わせて買収費2万6千円であった。
- この頃、県庁舎建設(明治28年建築 旧庁舎天理市に移築保存)も終わり公園整備は若草山麓から東大寺南大門表参道(現大仏前交差点 野守辻)にわたる旧野田郷一帯の民有地(雑種地)の買収による公園改良が急務であった。
- 買収した奈良倶楽部(2号館)は、さほど広くもないのでその拡充のため1号館を建築し第5回内国勧業博覧会に備えた。
- 設計者は、県技師の土田純一氏又は橋本卯兵衛氏ともいわれ大工吉田種二郎氏、建具川崎富三郎氏等により明治36年6月に完成。建築費は3万円であった。
- 1号館は、唐破風に仕上げその内容はこりにこった建築技法で、工事を請け負った奈良市中御門町の「仙吉」という名人肌の棟梁は、兎角こり性で「下手な建物を作るな」と腕利きの大工を集め、精魂こめて完成させたという話が残る。
- この構築は、「奈良倶楽部」或いは「奈良倶楽部及び公会堂」と呼ばれ整備の進んだ明治39年公園管理に移され、大正2年大仏殿~水谷川間の道路整備、大正5年北側の池新設、大正7年構内に車夫溜建設等を含め幾多の改造修理をした。
- 明治41年11月10日~15日陸軍特別大演習の奈良大本営にあてられ明治天皇が滞在される。大正5年春「神武天皇2500年式年祭」に御参拝の大正天皇、皇后両陛下の御宿泊所にあてられる。昭和12年6月貞明皇后陛下の御宿泊所となる。
- 「奈良県新公会堂」として、広く県民の集会所として利用されたが1号館79年、2号館93年の歳月経過に伴い老朽化甚だしく危険なため昭和58年5月末日をもって閉館とした。
能楽の歴史
奈良春日野国際フォーラム 甍~I・RA・KA~ 能楽
古典劇について
- 日本には、四つの古典劇があります。
中世の能・狂言、近世の人形浄瑠璃(文楽)、歌舞伎の四つです。むろん、古典芸能の古いものには、古代の神楽、舞楽、舞踏がありますが、古典劇つまり、演劇として性格の強いものは、前述の四つに限られます。
- 能楽とは、歌舞劇の能と、セリフ劇の狂言を一括して言う明治以降の呼称です。
その源流は、奈良時代に中国より渡来した散楽に発しており、奈良の地を母胎として日本に根付づいたものです。
その後、都が平安京に移されましたが、日本の宗教、学芸の中心であった奈良を主要な基盤として成長発展してきた芸能です。
- 中国の唐の時代、その散楽は曲芸、奇術等が主体となり、音楽の要素の濃いものであったと言われます。752年東大寺の大仏開眼供養に散楽が演じられたという記録があります。(その散楽が訛って「猿楽」になった。)
- 平安時代の後期になると、宮廷の猿楽が衰えて、社寺の行事と結びついた民間の猿楽が主流となってきます。
- その猿楽が歌舞の比重を増し、歌、セリフ、舞の諸要素が合わさった劇形態の芸になりました。すなわち「能」といわれるものです。
- 民間の猿楽の芸団組織が座と呼ばれるもので、大和・近江・丹波・摂津・伊勢など近畿一円の国々の多数の座がありました。
奈良は能の発祥の地
- 大和(奈良)には、大和猿楽と言われる四座がありました。
結崎座→観世座
円満井座→金春座
坂戸座→金剛流
外山座→宝生流
そして、それぞれの座のスター的役者が実質的に座の代表者の地位を占め役者の芸名が座の名称となって世間に通用するようになりました。
- その頃、猿楽と別の芸である「田楽」(田植え行事などの際に、豊作を祈る農村行事から発展した芸能)が鎌倉時代の将軍、南北朝、足利将軍などの援助を得て盛んでしたが、多数の猿楽座の芸人が、田楽座を目標に技を磨き、当時の支配階級の足利武将の支持を獲得するために、競争したことによって能の質をたかめることになりました。
そうした時期に、猿楽の能を田楽と対等に引き上げた大和猿楽の四座は、興福寺の薪猿楽、春日若宮祭へと芸を競い芸質を高めていきます。
- 観阿弥の子、世阿弥は観世座の二代目太夫となり、父の偉業を継いで猿楽能を歌舞中心の美しい能へ洗練し、芸術性を著しく高めました。
世阿弥は、演者と作者と理論を兼ね合わせた日本文芸史上、稀にみる天才と言われます。その世阿弥の芸を高く評価し、絶大な支援をしたのが、将軍「足利義満」です。
- 世阿弥の娘婿「金春禅竹」は、大和猿楽四座で最古の由緒を誇る円満井座の三十代棟梁であります。
- 世阿弥と禅竹は、親密な師弟関係にあり、活動は地味なものではありましたが、本拠地を奈良として河内・丹波・近江・北陸地方まで足をのばしました。そういった意味では世阿弥の後継者と言えます。
- 現在の金春流は、始祖「秦河勝(はたのかわかつ)」(630年頃)以来百数十代に及びますが、事実上の流祖は「金春禅竹」であると言われます。
- 室町時代の奈良では、諸行事と猿楽能と結びつき、民衆にと手身近な芸能でありました。しかし、室町時代後期に起こった応仁の乱は猿楽能に大きな影響を与えました。
- この時期に、観世小次郎信光と禅竹の孫にあたる金春太夫元安らが、共用の高い支配階級を対象に歌舞中心の世阿弥的な猿楽を一般民衆の支持を得る方向に努力しました。
- 織田信長は、足利将軍と同様に猿楽能に対しては好意的でありました。
- 豊臣秀吉は足利義満と並ぶ恩人で、金春流の猿楽を自ら学ぶほどの能狂でした。秀吉は、金春座をはじめ大和四座の全てに千石程度の配当米を支給し、猿楽能の育成を図りました。応仁の乱後、絶えていた薪猿楽、若宮祭の参勤も秀吉の命令によって活気を取り戻しました。
- 徳川家康、前田藩、細川藩の武将と猿楽では、秀吉時代や足利武将にもまさる盛況でした。
- 徳川幕府時代にあっては、家康の没後、能役者の太夫や家元格の人物に居住地を提供し、本拠地を江戸に移させました。
- 徳川二代将軍秀忠も猿楽能を好み、喜多太夫を支援し、四座に喜多流を加えた四座一流が幕府の式楽を担当するようになりました。
- 将軍家を見習い、地方の有力な諸藩も四座一流を保護したので猿楽能は全国的に盛んになりました。
- 江戸時代の後期になって、新興の歌舞伎劇や浄瑠璃が芸能界の主流となり、猿楽能の人気が低下してきました。
- 徳川慶喜が大政奉還を行った明治維新によって四座一流の能役者は全て俸禄を失い、巷にほうり出され、鎌倉時代以来由緒ある「春日若宮祭」及び、「興福寺薪御能」の開催も不可能になりました。
- 維新の打撃によって再起不能と思われた能楽が、皇室、華族、新政府の支援によって息を吹き返し、東京を中心として復活しはじめました。
- 「能楽」と呼ばれるようになったのは、明治13年頃からです。
当館能楽ホール概要
奈良春日野国際フォーラム 甍~I・RA・KA~ 能楽ホール
- 全国的に「能楽堂」と呼ばれていますが、当館は「能楽ホール」という名称で呼んでいます。
- 能楽ホールは、奈良県が「能楽」発祥の地であることから奈良県置県100年を記念し、当館に新しく設置されました。
- 能楽ホール能舞台は、能舞台の形式がほぼ確立された室町時代の様式を再現することに努め、規模・設備ともに充分な能楽ホールとして、室町時代の優雅な雰囲気を蘇らせています。
- 能楽ホール舞台の目付柱を取り外し出来るようになっており、国際会議、学術会議等のステージに転換して多目的利用が出来るようになっています。(参考までに、熱海市にあるMOA美術館にある能楽堂は、2本の柱(目付柱とワキ柱)が取り外し出来るようになっています。)
- 使用されている木材は、全て檜材です。材は全て柾目で無節材です。床板と天井材は板目で尾州檜、他は台湾産の檜材です。能楽ホールに入った途端、プーンと檜の香りがしますが、長年経過した今日もその檜材の香りを漂わせています。
- 能舞台の大きさは、三間四方(5.91m2)です。舞台と橋掛りとの取り付け角度は、演能に大きな影響を与えるものですが、当能舞台は国宝に指定されています西本願寺の南舞台にほぼ近い76度に設計されています。
- 舞台の鏡板の老松と竹絵は、奈良市白毫寺町在住であった日本画家松井牧牛氏の製作によるものです。
- 舞台の屋根は切り妻仕様で檜皮葺きです。
- 見所(観客席)は480席・移動席20席で合計500席あります。座席の椅子はデンマーク製です。
- 音響面については、演能に適した残響時間を得るため、パネル天井の内懐に、その音量を調節できる多数の吸音パネルを設置しています。見所の内壁面の後ろに空気層を設け、板振動による低音吸収ができるようにしてあります。
- 三方の壁は、音響効果を考慮してアコーディオン諷に作られています。クロスは、能衣装の図柄から取り入れられており、右が七宝、後ろが篭目、左が鱗です。鱗は能の「道成寺、葵の上」など般若の面をつけるときに用いられる定番の衣装です。
当館受賞歴
当館美術品等
庭園
[作品名]
鴟尾の庭
[作者名]
奈良公園事務所の設計
[展示場所]
正面玄関の北側
[作品の内容等]
前庭にある鴟尾は、明治22年に唐招提寺の鴟尾を模して作られ、旧奈良県公会堂の大屋根に設置されていたもの。「鴟尾の庭」は旧公会堂を記念するため、鴟尾や瓦をモチーフにして造園化したものである。
壁面モニュメント・レリーフ
[作品名]
マイスカイホール87-1
[作者名]
井上武吉
[展示場所]
階段の壁面
[作品の内容等]
井上武吉氏(1930~1997)は奈良県宇陀市出身の彫刻家。このモニュメントは、向かい側の壁面に大和三山のレリーフを配し、日出ずる国(大和の国)の大和三山(古代の藤原京を囲み、北に耳成山、東に香具山、西に畝傍山)を照らす太陽を表している。
なお本作品は、昭和62年(1987年)作であるところから87-1とされている。